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名言名句 第七十七回 岡倉天心 「茶道は、生きる術を授ける宗教なのである」。


茶道は、生きる術を授ける宗教なのである。 岡倉天心茶の本

 

 

 今回の名言は、そもそも「茶道とはいったい何か」を解き明かそうとするものです。

明治期の世界的名著である『茶の本』で、岡倉天心は「生きる術(すべ)を授ける宗教」である、と看破しました。

まずは、現代語訳角川文庫版から同句を含む第二章 茶の流派の一節をご紹介します。

 

 

 

【訳文】

茶の本』第二章 茶の流派

 

茶の理想の頂点はこの日本の茶の湯にこそ見出される。一二八一年のモンゴル襲来を見事に阻んだことによって、日本は、中国本国では異民族支配によって無残に断絶してしまった宋の文化を継承することができたのである。 

私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、日に見える形式となったのであり、その機会に応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に創り出すという神聖な役割を果たすことになる。茶室は、索漠とした日々の暮らしに潤いをもたらすオアシスであり、そこに会した旅人たちは、共に、芸術鑑賞の泉を分かち合って疲れを癒すのである。茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織り成される即興劇である。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を壊すような仕草、あたりの統一を破るような言葉といったものは一切なく、すべての動きは単純かつ自然になされる――

茶の湯が目指したのはこのようなものである。そして、この企ては不思議にも成就されたのである。そのすべての背景には微妙に哲学が働いている。茶道は姿を変えた道教なのである。

 

(『新訳 茶の本 ビギナーズ 日本の思想』 角川ソフィア文庫 2005/1/25岡倉 天心 著,大久保 喬樹 翻訳)

 

 

 「私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである」は、天心の英語原文では下の一節となっています。

 

Tea with us became more than an idealisation of the form of drinking; it is a religion of the art of life.

 

 

 角川文庫版の訳文「生きる術を授ける宗教」は、原文の“a religion of the art of life”の部分です。現在日本では一般に「art=芸術」と置き換えられますが、もともとの語源では“nature(自然)”に対する、“art(人工)”という概念であり、技術や技芸を指す言葉でした。よってこの訳文となっているのです。

 さてこの「生きる術(すべ)」とは何か。なぜそれが「宗教」となったのでしょうか。

 

 

・日常生活のすべてが修行である

 

 禅では「行住坐臥」といい、日常生活のすべての行いが修行だと考えられています。

「行」は歩く、「住」は止まる、「坐」は座る、「臥」は横になること。つまり、朝起きてから、顔を洗い、掃除をし、食事を作り、座禅・読経し、外出して勤めをし、寺へ戻り一日の始末をして夜寝るまで、一挙手一投足が、悟りのトレーニングである、と教えています。

 たとえば茶道の秘伝書『南方録』で、茶における行住坐臥を利休は次のように説いています。

 

 

宗易、ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに、茶湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は草の小座敷にしくことなしと常ゝの給ふは、いか様の子細か候と申。宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を楽とするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢ぬほどにてたる事なり。これ仏の教、茶の湯の本意なり。水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏にそなへ人にもほどこし、吾ものむ。花をたて香をたく。みなゝ仏祖の行ひのあとを学ぶなり。なを委しくは、己僧の明めにあるべしとの給ふ。

 

(『南方録』覚書 岩波文庫 1986/5/16 西山 松之助 校注)

 

 

・一期一会。今、ここにすべてがある

 

 茶の湯では、行住坐臥と同様に、もっとも大切とされている言葉があります。それが、

 

 一期一会

 

 死後の往生や来世に救いを求める他の宗教とは異なり、現世で悟りを開き、成仏することを目指す禅では、もっとも大事なのが、まさに今、生きているこの一瞬である、としています。

 やり直しのきかない、今の一瞬一秒を何よりも重んじ、日常の些事をおろそかにせず、目の前のことすべてに全力で取り組むべき―。

 これが「一期一会」であり、茶禅一味思想の根本です。今、流行の言葉で言い換えれば「君たちはどう生きるか」を具体的に指し示した教えだといえましょう。

 ふらふらと何の考えもなく、信念もなく「今さえよければそれでいい」などとうそぶく態度とは真逆のものです。

 

 

提る 我得具足の 一太刀

今此時ぞ 天に抛つ

 

(『千利休 遺偈』 天正十九年)

 

 たかが一椀の茶、己の茶を守るために生を截ち切った利休の気迫こそ、茶道が400年以上もの長きにわたり日本文化として継承されてきた大本なのではないでしょうか。

 それを、茶道は単なるティーセレモニーではなく、「生きる術を授ける宗教なのである」と、はじめて日本に接する欧米の人々へ伝えた天心の先見の明には、驚くしかありません。

【日本文化のキーワード】第十回 鬼


「鬼」とはいったい何者か。日本文化を読み解くキーワード、今回は「鬼」にスポットライトをあてて、日本人の心の中に深く分け入ってみましょう。

 

 

[第一章] 鬼とは何か

 

 

■鬼の誕生

 

日本文化における鬼のイメージは、多種多様、かつ複雑です。 鬼は、恐ろしいもの、強いもの、人に敵対するものの象徴とされる一方、人を助けたり幸せをもたらしたりする神としても捉えられることがあります。

このような鬼の多面性は、鬼の語源や由来、仏教や陰陽思想の影響、民俗学や文学・芸能などの表現によって形成されてきたと考えられるのです。

 

まず、鬼という言葉や、漢字の語源、由来について見てみましょう。

源順(みなもとのしたがう)のわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』には、

「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」

とあります。

 「おに」という言葉は、姿が見えないこの世のものではないものを意味する「隠(おぬ)」が転じた、あるいは「陰(おん)」が転じた、などの説があるというのです(「陰」については鬼と陰陽思想として後述)。

 「鬼」(おに/キ)という漢字は死体の象形文字で、人は死んだら鬼になると考えられ、大きな頭の形(『新漢語林』)が、この世の人とは異なることを示していると考えられます。

 

 

 

中国では、鬼とは死者の霊魂そのものであり、姿形のないものとされてきました。 それが日本に伝わると、死に対する恐怖から鬼は恐ろしくて怖いものと捉えられていったようです。

 

 

■古代の鬼は、神でもあった

 

折口信夫は、「恐るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測しました。実際、鬼と書いて「カミ」と読む場合があるのです。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けています。

馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、

「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」

と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されていると推論したのです。また『民俗学事典』には、

「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」

とあります。
 文献上に「鬼」の文字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』。大原郡阿用郷縁起として、

「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」

とあり、ここに日本ではじめて鬼があらわれるのです。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事も見られます。

 

 

■鬼を形づくった思想

 

鬼は誕生から、長い年月を経るうちに、仏教や中国古代思想(陰陽思想)、また民間説話・伝承、文学、芸能などから徐々に形成されてきたと考えられています。

 

まず仏教における鬼について考えてみましょう。 仏教では業に従って輪廻転生する世界を「地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人間道・天道」という六つの世界で説きました。

この中の「餓鬼道」は、絶えず飢えに苦しみ、食べ物を口に近づけるとすべて炎となって口に入れられず、決して満たされることがない。 また、地獄には閻魔王のもとで死者を責めたてる獄卒(ごくそつ)という鬼がいます。

戦闘を好む阿修羅は鬼神とされる。 仏教では、これらの鬼は悪行や煩悩によって生まれた存在であり、悟りや解脱を得ることができれば人間や天上界へ昇格することが可能であると説いているのです。

 

つぎに、陰陽思想における鬼について考えてみましょう。日本文化の成立と発展には、物事は陰と陽で成り立っているという「陰陽思想」が深く関係してきました。

たとえば、“月は陰、太陽は陽”になります。 邪気の象徴となる鬼は「陰」であり、「丑寅(うしとら。 艮)」の方角や時刻に関係する。 丑寅の方角は北東であり、鬼は鬼門と呼ばれるこの方角から出入りするとされています。丑寅の時刻は深夜二時から四時頃であり、鬼は真夜中に活動するとされます。また、鬼はウシの角、トラの牙や爪をもち、トラ皮の衣装をつけた姿で表現されるようになっていったのです。

 

 

 

 

■鬼の分類

 

目には見えず、人を食らう恐ろしい存在である鬼は、仏教系の地獄の鬼や、陰陽思想の牛虎のイメージを借り、平安時代源信の『往生要集』等から徐々にイメージが具体化され、地獄図などに描かれるようになっていきました。

馬場あき子は、『鬼の研究』で時代と共に変遷していく鬼の様相を以下の五つに類型化しています。

 

1.民族学上の鬼で祖霊や地霊。

2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、天狗など。

3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。

4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。

5.怨恨や憤怒によって人が変身した鬼。

 

歴史的に見れば、おおむね上の順序によって、さまざまな鬼のイメージが生まれてきたと考えられましょう。時間による累型の違いというよりも、1.~3.の鬼と、4.5.の鬼ではその本質の違いに決定的な開きがあることに気づいたでしょうか。前者はこの世ならぬ存在、すなわち生粋の鬼であり、後者は人が変貌して成り果てた鬼なのです。

 

 

 

[第二章] 能の鬼

 

 

世阿弥が見た鬼

 

神話や伝承で文字として表現された鬼が、まず仏教の地獄図などで視覚化され、さらに神楽や民俗芸能によって、その恐ろしく禍々しい姿がありありと現実存在として具象化されていきました。

虎の皮こそ身にまとっていませんが、能が描いた鬼の〈目に見える姿〉は、その後の日本人に鬼の姿を定着させていくマイルストーンとなったのです。

 

能の大成者、世阿弥が見た鬼とはどのようなものだったのでしょうか。

 

 

■鬼か、幽玄か

 

「これ、ことさら大和の物なり、一大事なり。(中略)鬼の面白き所あらん為手は、究めたる上手と申すべきか。委しく習ふべし。ただ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんがごとし」。

(『風姿花伝』第二物学條々)

 

世阿弥の父、観阿弥が立ち上げた大和の猿楽一座〈結崎座〉(後の観世座)は、もともと鬼の芸を得意とする一派でした。これに対し、ライバルである近江日吉座の犬王道阿弥は、舞を中心とする幽玄な芸で人気を博していたのです。この犬王の幽玄な猿楽芸を世阿弥は、自らの芸へと取り込み、今日の能の礎を築き上げました。

 

しかし、「ことさら大和の物なり。一大事なり」とする鬼の芸を世阿弥は生涯捨てることはなく、かえって自らの能楽理論の中で、より高位にあり、かつ難易度の高い演目としてとらえなおしていきます。

 

 

■能の先達の鬼の芸

 

世阿弥の先達といえば、まず父の観阿弥です。そして観阿弥が鬼の芸のお手本とした他座の名役者がいました。

まず、観阿弥の鬼の芸とはどのようなものだったのでしょうか。

 

「いかれることには、融の大臣の能に、鬼に成りて大臣を責むると云う能に、ゆらりききとし、大きになり、砕動風などには、ほろりとふりほどきふりほどきせられし也」。

(『申楽談義』観阿)

 

ゆらりききとし(ゆらゆらと、またきびきびと)、ほろりとふりほどきせられし―。

観阿弥の鬼の芸は、一見荒々しくも、恐ろしくもなかったような印象を受けます。

 

それでは、観阿弥がお手本とした先達の鬼の芸はどうでしょうか。

「かの鬼の向きは、昔の馬の四郎の鬼也。観阿もかれを学ぶと申されける也。さらりききと、大様大様と、ゆらめいたる体也。光太郎の鬼はついに見ず。古き人の物語の様、失せては出来、細かに働きける也」。

(同)

 

観阿弥の鬼の芸の師は、馬の四郎。摂津榎並座の猿楽役者です。さらりきき、大様大様とゆらめいたる(さっと素早く、きびきびしながらも大きくゆらめくような)芸だったといいます。

光太郎とは、世阿弥の芸養子である金春禅竹の祖父。世阿弥は初めて舞った、狂う鬼の舞台で「失せては出来る」光太郎の鬼の至芸をほうふつとさせる、と観客に賞讃されたのです。

 

馬の四郎、光太郎、観阿弥世阿弥等の鬼は、ぼくたちが描く、激しく強く、禍々しい鬼のイメージとはかなり異なるもの。それはなぜでしょうか。

 

 

■力動風の鬼と砕動風の鬼

 

世阿弥晩年の演技の伝書に絵図の入った『二曲三体人形図』があります。

能の演技の基本形を表した世阿弥の解説書で、鬼の芸については、〈力動風(りきどうふう)〉と〈砕動風(さいどうふう)〉の二種に大別して、その要点を説いています。

 

1.力動風 (勢形心鬼)

 

 

2. 砕動風 (形鬼心人)

 

 

世阿弥の説く力動風鬼とは、姿かたちも、心も純粋な鬼であり(勢形心鬼)、そこには一片の人間性もありません。能の曲目でいえば、〈大江山〉〈土蜘蛛〉〈鵜飼〉などです。

かたや砕動風の鬼とは、「姿かたちは鬼でも、心は人」とあるように、何らかの原因や業によって、人が鬼と化したものを指します。

砕動風の鬼の代表として、般若の面をつける、人間の女が鬼に変身した〈鉄輪〉〈道成寺〉〈葵上〉など、多くの人気曲があります。

 

「ことさら大和の物なり」と、自身の一座の看板芸であった鬼を、面白いことに世阿弥本人は「よくせんにつけて面白かるまじき」(『風姿花伝』)、「こなたの流には知らぬ事」(『佐渡状』)などと否定、排斥しようとしたきらいがあります。

それはなぜかといえば、鬼の正体はつきつめれば人の心の闇だからなのです。

 

 

■自分の中の鬼

 

世阿弥の幼名を〈鬼夜叉〉といいました。

猿楽芸を時の将軍に認められ、一躍時代の寵児となった世阿弥の生涯は、晩年に至って、坂を転がり落ちるように、悲運が見舞い続けたのです。

 

ライバルたちとしのぎを削り合った青年期から、壮年期に至るまで、関わった多くの人たちの心の闇をどれほど垣間見たことでしょうか。振り返ってみれば自身も、周囲の人々へ、芸事においては一歩も譲らず、柔和に微笑みながらも「心を鬼」として過酷な処遇をしていったのかもしれません。

 

幼時に心身が弱く、鬼に対して尋常ならざる恐怖心を抱いていた馬場あき子は、『伊勢物語』の一節を契機として、鬼と和解できたことを以下のように回顧しています。

 

「〈業平の女を喰った鬼の話〉の末尾で、『それをかく鬼とはいふなり』と記された一文に出遭った時、もはや二十歳をはるかに過ぎていたはずの私は、はじめてほっと吐息をついたものである。『それをかく鬼とはいふなり』という含みのある文体の中に、鬼とはやはり人なのであり、さまざまの理由から〈鬼〉と仮によばれたにすぎない秘密が隠されているのを感じたからである。その秘密を知ることが、その後の私と鬼との交渉をきわめて親しいものにし、ついには自分もまた鬼であるかもしれないと思うようになっていった」。

(『鬼の研究』)

 

鬼への恐怖心が反転して興味・関心となり、さらに自らその一族に引き込まれ、ついには〈一種の愛〉さえ育ち始めた、と馬場は回想します。

 

いにしえの歌人も、深窓の令嬢へ贈った恋の歌に、相手のことをふざけて“鬼”(決して姿を現さない存在)と呼びかけました。

 

馬場より千年も前に、日本人は鬼を恐れ、忌み嫌う対象ではなく、〈一種の愛〉をもって接する、親密な相手と捉えていたのかもしれません。

 

 

みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか

 

(平兼盛『大和物語』58)

 

■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

・第八回 仕舞い

・第七回 間

・第六回 切腹

・第五回 位

・第四回 さび

・第三回 幽玄


・第二回 風狂

・第一回 もののあはれ

※「侘び」については以下参照

・[目利きと目利かず 第三回]

・[目利きと目利かず 第四回]

名言名句 第七十六回 二宮尊徳 「樹木を植うるや、三十年を経ざれば即ち材を成さず」


樹木を植うるや、三十年を経ざれば即ち材を成さず。 二宮尊徳『二宮先生語録』

 

 

 今回の名言は、今日のSDGsにもつながる「木を植える」というテーマです。

尊徳晩年の弟子、斎藤高行が師の没後、その教えを筆録・編纂した『二宮先生語録』から、以下、原文(漢文読み下し文)と現代語訳をご案内しましょう。

 

 

 

【原文】

 

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば即ち材を成さず。宜しく後世の為めに之を植うべし。今日用ふる所の材木は則ち前人の植うる所。然らば安(な)んぞ後人の為めに之を植ゑざるを得ん。夫れ禽獣は今日の食を貪るのみ。人にして徒に目前の利を謀らば、則ち禽獣と奚(な)んぞ擇ばんや。人の人たる所以は推譲に在り。此に一粒粟あり、直ちに之を食へば即ち止(ただ)一粒のみ。若し推して以て之を植ゑ、秋実を待つて食へば、則ち百粒を食ふも、猶ほ且つ余りあり。是れ即ち万世不易の人道なり。」

 

(『二宮先生語録』巻一/六八(『二宮学派・折衷学派 (大日本文庫 ; 儒教篇)』小柳司気太 校 春陽堂書店 昭12)

 

 

【現代語訳】

 

樹木を植えたならば、三十年経たねば木材とはならぬものだ。つまりは後世のために木を植えるのである。今われわれが使っている木材は先人が植えたもの。それならばなにゆえ後の人のために木々を植えぬわけにまいろうか。そもそも鳥獣は今日の食物を貪るのみ。人として、いたずらに目前の利得だけを求めるならば鳥獣とどこが違うといえるのか。人の人たるゆえんは、推譲にあり。たとえばここに一粒の粟があったとせよ。そのままそれを食べてしまえば、たった一粒。しかしこれをとっておいて植え、秋の実りを待って食べれば、たとえ百粒食べたとしてもまだ十分に余りがある。これがすなわち万世不易の人道である。」

 

(水野聡訳 2023年9月 能文社)

 

 

 

 二宮尊徳の独自の思想は「報徳思想」と呼ばれ、それは以下、四つの基本原理で成り立っています。

 

【至誠】

至誠とは、物事への取り組みを真心を持って誠実に行うこと。

そして、真心は具体的に行動をおこさなければ意味がないと尊徳はいいます。これはすべての物事に対する基本的な態度であり報徳思想の根底の考え方です。

 

【勤労】

「至誠」の心を持って、私たちは「勤労」をする必要があるといいます。ただ生活の収入のため、あるいは自尊心のためだけに働くわけではない。大事なことは徳に報いること。そのために誇りをもって倦まずたゆまず自らの仕事を続けていくことです。

 

【分度】

「分度」とは、それぞれの収入の中で、適切な支出範囲を決めるということ。

収入以上の支出をすれば、赤字になることは明白です。質素で倹約的な生活を実践し、収入の範囲外(分度外)を貯えることを勧めます。

 

【推譲】

推譲とは、分度で残しておいたものを自ら人に譲ったり、将来に残したりするという意味。またそれは、財物のみを譲るのではなく、精神的なものをも意味します。思いやりの心を持ちながら、人に譲るということを大切にしようと尊徳は説きました。

 

 

これら四つの原理の内、尊徳の足跡をたどり、実績を評価する上で独自のものとされるのが、【分度】と【推譲】です。以下、『二宮翁夜話』から尊徳自身の言葉を引用します。

 

「分度を守るを我道の第一とす。能此理を明にして、分を守れば誠に安穏にして、杉の実を取り、苗を仕立、山に植えて、其成木を待て楽しむ事を得るなり、分度を守らざれば祖先より譲られし大木の林を、一時に伐払ても、間に合ぬ様に成行く事、眼前なり、 分度を越ゆるの過恐るべし。財産ある者は、一年の衣食、是にて足ると云処を定めて、 分度として多少を論ぜず分度外を譲り、世の為をして年を積まば、其功徳無量なるべし。釈氏は世を救はんが為に、国家をも妻子をも捨てたり、世を救ふに志あらば、何ぞ我分度外を、譲る事のならざらんや」

 

(『二宮翁夜話』福住正兄筆記 佐々木信太郎校訂 岩波書店 2017年)

 

 

 【分度】も【推譲】も元来一般名詞ですが、報徳思想による仕法の経済的な実践として展開されていったため、今日では尊徳の独自の用語とされるようになりました。

 また、理論と実践の関係から見れば、それらは仕法による廃村復興の一例一例の実践から生み出された言葉であり、思弁による哲学思想ではなく、土から生まれ、天と人が融合した普遍の智慧ともいうべきものです。

 

 

 さて、土から生まれ、人と地球に計り知れぬ恩恵を与えてくれる樹木は元来自然の里山に自生するものですが、用材としては人が植えたもの。いつ、だれが、何のために植えたのか。数十年前、あるいは百年以上前に先人が、子孫のための「贈り物」として種を蒔いたものです。

 人生八十年。一人の人間が一代で成せる事はまこと微々たるものです。植物でいえば、一つの花から生まれたたった一粒の種。しかし、その種が木となり花となり、実を結び、やがては広大な大森林、豊かな地球環境となっていくに違いありません。間違っても子孫へ負の遺産は残さず、たとえ小さなことでもいいので自分の持ち物をひとつかふたつ、まだ見ぬ未来の子供たちへ推譲せよ、と尊徳は教えたのです。

 

 推譲はまた、未来へ引き継ぐという観念から、茶の湯の“侘び”の精神とも結びついていきます。「し残すことが、まさに生き延びるわざである」と兼好法師が『徒然草』で述べたように、尊徳の分度外(余白)の推譲こそ、侘び茶が半世紀近くかけて追求し、実行してきたものに他なりません。

 

※参照URL

【言の葉庵】名言名句第十五回 徒然草 「し残したるを、さて打ちおきたるは」

http://nobunsha.jp/meigen/post_61.html

 

名言名句 第七十五回 千利休 「渡りを六分、景気を四分に据え申し候。」

渡りを六分、景気を四分に据え申し候。 千利休~『石州三百ヵ条』

 

 

今回は、庭造り、露地の飛び石についての利休の名言です。

茶庭である露地の飛び石は、茶室へと至る庭の通路として設置され、千利休安土桃山時代頃に成立した、比較的新しいものです。

その名の通り、平らな石を飛び飛びに並べ、その上を客人が伝い歩いたため、古くは「伝い石」とも呼ばれました。これらの石の並べ方、配置について利休は「渡り(歩きやすさ)を六分、景気(美観)を四分」に按配して据えよ、と示したものです。

まずはこの句の出典から、原文と現代語訳をご紹介しましょう。

 

 

【原文】

 

「飛石ハ利休ハ渡りを六ふん、景氣を四ふんに居申候由、織部ハわたりを四ふん、景氣を六ふんにすへ申候、先、飛石ハ渡りのためなれば、わたりを第一とす、然共、まつすくに同じやうにつゝけてハかたく候、それゆへひつミを取也、しかれとも無用の所にて、わさとひつませ候ハ作物にてあししき也、何そ木にても下草にても、いき當りをよけ候ためにひつませ、又ハ石のとめ合により不足成るところにすへ石を置、それより居へつゝくるやう渡りを第一にするなり、尤よき石ハ嫌ふなり、あしき石にて見立よく居なすへし、今時、物すきとてあそここゝと石をひつませ、渡りの心なきハ嫌ふ也」

(『石州三百ヶ条』(『茶道古典全集』第二巻 千宗室編纂  淡交社

 

【現代語訳】

 

飛び石を利休は、渡りを六分、景気を四分として設置、配列したという。弟子の織部は渡りを四分、景気を六分として並べたのだ。

そもそも飛び石は、渡って歩くためのものなので、渡りを第一とする。しかし石をまっすぐ同じように続けたのでは、固くみえる。それゆえ歪みをつけるのである。かといっても、無用の場所でわざとらしく歪ませるのは作り物でよくない。たとえば樹木や下草が障りとなる場合、これをよけるために歪ませ、または石と石とのつなぎに間が開いてしまった時、その足りない所へ据え石を置くとよい。その石より次の石へと続くように、渡りを第一とするのだ。さてまた、見映えのよい石は嫌う。見劣りする石を収まりのよきように見立てて据えよ。今どきの数寄者と称する人が、あちらこちらと石を歪ませ、渡りの心がないのは考えものだ。

(水野聡訳 2023年5月 能文社)

 

 

利休のいう、「渡りを六分、景気を四分」は、ぼくたち日本人の美的価値基準が、全き対称ではなく、いずれかの極へ少しずれ、傾く非対称性を象徴しています。

これは伝統的日本文化・芸術の諸相で広く観察される現象です。

なぜ日本人は非対称とわずかなずれを美しいと感じるのか。日本文化のいくつかの分野でサンプルケースをたどっていきましょう。

 

 

■利休は美が四分、織部は美が六分

 

まずは、利休作と伝えられる露地の飛び石と織部作の露地を見てみましょう。

 

利休のいう「渡りを六分、景気を四分」はいい換れば、機能が六割、美が四割とも考えることができます。すべて実用品であり、“用の美”たる茶道具の美的価値を四分とした利休に対し、弟子の織部が六分としたのは興味深いことです。利休形の代表たる樂茶碗と歪んだ織部焼茶碗を見比べた時、師と弟子のバランス感覚の違いがよく表れているのではないでしょうか。

 

 

 

■日本文化は不足の美

 

さて、「六分、四分」は機能と美のバランスですが、美そのもののバランスについても、東洋、とりわけ日本では、「五分、五分」すなわち完全なる均衡を理想の美とはしていません。

日本古来の絵、水墨画山水画では絵の構図として「一角様式」が伝統的に踏襲されています。

これらの作品では、山や川などメインモチーフはいずれかの一隅に偏って描かれ、他は大きな余白として残され、何も描かれないのです。

この「一角」技法は、南宋の画家、馬遠より起こり、禅画を中心として日本でも広く普及していきました。

 

 

鈴木大拙は「一角」について、仏教思想(華厳経)の「一即多、多即一」とひもづけて、以下のように論じます。

 

「日本人の芸術的才能のいちじるしい特色の一つとして、南宋大画家の一人馬遠に源を発した「一角」様式を挙げることができる。この「一角」様式は、心理的にみれば、日本の画家が『減筆体』といって、絹本や紙本にできるだけ少ない描線や筆触で物の形を表すという伝統と結びつている。(中略) 非均衡性・非相称性・「一角」性・貧乏性・単純性・さび・わび・孤絶性・その他、日本の美術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところに発する。」

(『禅と日本文化』鈴木大拙 岩波新書 1940.9.30)

 

 

美術技法として見れば、「一角」の余白部分は、鑑賞者の想像力に働きかけ、創造力を呼び起こすもの、とされます。峻厳たる岩山の何も描かれない余白に、あるいは月を見、あるいは帰雁の連なりを見、時には古寺の晩鐘の音までをも聞くのです。

余白は不完全であり、不足ですが、そこに新たなる価値、生命が生み出される。ぼくたち日本人は、このようにして美を感じ、命を与えてきました。

 

 

■五分五分は神の座、人は三分一である

 

利休の飛び石の「六分、四分」は非均衡、非対称により、茶庭に美と生命を与えようとするものでした。

ひとたび茶道具へと目を転じた時、この非対称性は『南方録』の〈カネワリ〉と呼ばれる茶道具配置法に顕著に表れてきます。

〈カネワリ〉は台子に茶道具を飾り付けるための厳密な配置分法です。

台子の天板の上に五本の線を均等に割り付け、原則としてその線上に各道具を置いていきます。

この五つの線を〈陽カネ〉と呼び、中央の〈第一のカネ〉から、右、左へと〈五番目のカネ〉まで、茶道具の位(価値)に応じて配していく技法です。

 

面白いのは、この線(位置)の上に置く道具はすべて、真上に置かず少し右か左へとずらして置くというもの。ずらし方には〈三分一〉と〈峰ずり〉と呼ばれる二種類があります。一つ物と呼ばれる、飾りの主役級たる大名物茶道具は中央のカネにただ一つ〈峰ずり〉で置く。その他の道具は、他のカネにすべて〈三分一〉で置くこととされています。

 

 

■翁、すなわち神のみが中央の道を行く

 

「能にして能にあらず」とされる、能の秘曲〈翁〉。能の各流儀、各家では〈翁〉を演じる上で、様々な口伝・秘伝が伝えられてきました。

シテ方某家に伝わる習い(相伝)では、翁が登場する時、シテは橋掛かりの中央を通って本舞台に入る、とされています。そして、その他すべての曲では、シテは橋掛かりの中央線が右肩あたりにくるように、やや左寄りに橋掛かりを運ぶ決まりになっているという。

 

いうなれば、通路の真ん中は神のみに許される通り道。人間は神の道を憚って、やや脇に寄って通らねばなりません。開演前の鏡の間では、〈翁飾り〉をし、演者は塩で身を清め、舞台は火打石で清められる。

〈翁〉は古代の神が降臨する、神聖なる儀式として今も特別に重んじられています。

 

もしも神の座を冒す者あらば、いかなる神罰が下ることやら。

日本人が無意識に真中を避ける文化的背景には、超自然的な存在への畏敬があるのかもしれません。しかし怖れ、憚るとはいっても深山、辺境に神を遠ざけることはせず、ごく身近に祭り、共に祝い、共に寿福を享受するために生活の諸所に〈神の庭〉を設けていたのではないでしょうか。

 

オフィシャルホームページ【言の葉庵】

千年の日本語を読む【言の葉庵】能文社 (nobunsha.jp)

三鷹市民講座「千利休が残した茶の湯の歴史」開講中

よみうりカルチャーの出張講座が、三鷹市生涯学習センターにて

連続3回で実施されています。

 

テーマは「千利休が残した茶の湯の歴史~茶道の歴史と意義をやさしく学ぶ」。

千利休が残した茶の湯の歴史~茶道の歴史と意義をやさしく学ぶ | 三鷹中央防災公園・元気創造プラザ (mitakagenki-plaza.jp)

講師 水野聡にて、2月4日土曜日、「第2回 珠光・紹鴎・利休の茶」を

開講しました。

 

今回申込制の公開講座へ、定員を超える多数のご応募をいただき40数名の

受講生の方々がご参加くださいました。

日本文化の代表である、茶の湯の歴史に皆様深い関心をもたれ、

熱心な質問も多く寄せられ、充実した学びの時間を共有することが

できました。

ご参加の皆様、市とカルチャー担当者の皆様にも深く感謝いたします。

次回は「第3回 唐物道具・侘び道具・草庵小座敷」を最終回として

2月18日 土曜日に開催予定です。

【名言名句 空海】物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。


今回の名言は、空海晩年の著、『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)から、この句をご紹介しましょう。

 

 物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。

 (物には定められた性質はない。どうして人はいつまでも悪人であり続けることがあろうか。)

 

 悪とは何か―。

 人の善悪については、孟子性善説荀子性悪説以来、長く論争されてきました。

 空海最奥の教義書たる本著において、冒頭の第一章「異生羝羊心」では、畜生にも劣る、もっとも愚かな凡夫の心性を「第一住心」と称し、一分の善もない全くの悪心、一分の明もない全くの暗心、自らの欲望に終始する、人面獣心のような心のあり方を説いています。

 

 この暗黒の世界に、はじめて一条の光が射し、人の人たる世界が開けゆくのが、第二住心と呼ばれる「愚童持斎心」の段階です。それは倫理、道徳の道が開ける儒教的精神の発揚段階。

 そしてよき教えに導かれ、善心がすくすくと伸び育つ、すべての精神の発達可能性も示唆します。

 

 「物に定まれる性なし」は、この宇宙の天然自然において永遠不変のものなど一つもないことを表し、「人、何ぞ常に悪ならん」は、人の心もこの万物変性の法則を受け、いかなる極悪人も生涯、悪に徹し続けることはできない、と説いているのです。

(※参照 【言の葉庵】救われる極悪人『今昔物語』 https://bit.ly/3XFkCPq ) 

 その変化のご縁となるのが、儒教五常であり、仏教の十善戒(五戒)である、と説明します。

 

 「愚童持斎心」は、幼な子がはじめて他者との接し方を悟った、いわば倫理のヨチヨチ歩きの状態である、ということに注意しなければなりません。人に施したのに、「返してくれない」「感謝されない」と不満に思うかもしれないからです。こうした心の縛りから解き放たれるために、第三から、第十住心へと至る空海の精神発展の階段がここに用意されました。

 しかし弘法にも筆の誤り―。この階段は、時につまづいたり後戻りすることもある、と気づくことも大切です。人は悪であり続けることは難しく、逆にいつまでも善であり続けることも、なかなか骨の折れることですから。

 

 以下、『秘蔵宝鑰』の解題と、〔第二 愚童持斎心〕の原文、現代語訳をそれぞれご案内していきましょう。

 

 

『秘蔵宝鑰』 弘法大師空海

 

 

〔解題〕

 

淳和天皇の天長七年(八三〇)に各宗の宗義を差出すように命があったとき、弘法大師空海は『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』の二書を献上した。この二部作は空海の数多い著作の中で文字通りの双璧の主著である。

前著の精髄を要約したものが『秘蔵宝鑰』(略称宝鑰)である。書名は秘(密)蔵、すなわち「われわれの心の真実相として秘められている世界」を開示する鍵を意味する。空海がいう心の真実相の世界は、第一住心より第十住心にいたる心の十の発達段階である。これらは動物精神的な世界から、倫理的世界、さらに宗教的世界の目ざめ、そして宗教的自覚の次第に深化してゆく心の発展過程を克明に説き、最後に第十秘密荘厳住心にいたる。現実的にはこの第十住心は空海真言密教であるが、しかし、第一住心より第九住心までのすべての心の世界は、そうした第十住心に包摂され、かつ一々の住心は第十住心の顕現にほかならないとするのが、空海の十住心体系の基本的立場である。

このように、『秘蔵宝鑰』の全体をつらぬくものは内面的精神の発達相であるが、それとともに見落してならないことがある。それは倫理以前の領域から儒教道教、奈良仏教の諸宗、平安の天台、真言という移りゆきがそのまま、ほぼわが国における思想史の形成を示しているということであろう。そして本著作は、わが国における宗教的なすぐれた求道の書というだけにとどまらず、稀右の思想書といわなければならない。訓み下しに当り、テキストは『弘法大師全集』所収のものを用いた。

 

 

〔原文〕

 

第二 愚童持斎心*1

 

夫れ禿なる樹、定んで禿なるに非ず。

春に遇ふときは栄へ華さく。増(かさ)なれる氷、何ぞ必ずしも氷ならん。

夏に入るときは則ち泮(と)け注ぐ。穀牙、湿ひを待ち、卉菓(きか)、時に結ぶ。

戴淵(たいえん)*2、心を改め、周処*3、忠孝あつしが如くに至つては、磺石(こうしゃく)、忽ちに珍なり。魚珠*4、夜を照す。

 

物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。縁に遇ふときは則ち庸愚も大道を庶幾(こいねが)ふ。教に順ずるときは則ち凡夫も賢聖に斉(ひと)しからんと思ふ。羝羊(ていよう)、自性な

し。愚童も亦愚にあらず。

是の故に、本覚、内に薫し、仏光、外に射して、欻爾(くつじ)に節食し、数数に檀那*5す。

牙種疱葉(びょうよう)の善、相続して生じ、敷華結実(ふけけつじつ)の心、探湯(くかたち)不及なり。

 

五常*6漸く習ひ、十善*7讃仰す。五常と言つぱ仁・義・礼・智・信なり。仁をば不殺等に名づく。己を恕して物を施す。義は則ち不盗等なり、積んで能く施す。礼は曰く、不邪等なり、五礼*8、序有り。智は是れ不乱等なり、審かに決し能く理(こと)はる。信は不妄の称なり、言つて必ず行ず。

能く此の五を行ずるときは則ち四序*9、玉燭し、五才*10、金鏡なり。国に之を行へば則ち天下昇平なり。家に之を行へば則ち路に遺を拾はず。名を挙げ、先を顕すの妙術、国を保ち、身を安んずるの美風なり。外には五常と号し、内には五戒*11と名づく。名、異にして、義、融し、行、同じうして、益、別なり。断悪修善の基漸、脱苦得楽の濫觴*12(らんしょう)なり。

 

 

 

*1愚童持斎心 愚童は凡夫を指し、持斎は戒律に則った生活をするという意味である。空海の十住心体系の第二である、愚童持斎心は節食し布施をするなど道徳に目覚めた状態であり、儒教などにあたる。

*2 戴淵  他人の船を襲い、掠奪しようとしたが、却って教誠され、改心して趙王に仕え予章太守となる(『晋書』)。

*3 周処  初め暴悪乱行であつたが、老父の訓誠によって改心し、呉王の忠臣となったという(『晋書』)。

*4 魚珠  鯨の目。

*5 檀那  danaの音写。布施すること。

*6 五常  仁、義、礼、智、信。この一節は、善心の実践として第二住心の当分を述べる。

*7 十善  不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貧欲、不瞑志、不邪見。

*8 五礼  古、凶、軍、賓、嘉で、周礼の説。

*9 四序  春夏秋冬の四季和順なることをいう。

*10 五才  五才は木、火、土、金、水の五行。この五行が各々その位を保って混乱せず、金鏡のように明了であること。

*11 五戒  不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不飲酒。

*12 濫觴 揚子江のような大河も源は觴 (さかずき) を濫 (うか) べるほどの細流にすぎないという、『荀子』子道にみえる孔子の言葉から。物事の起こり。始まり。起源。

 

(『日本の思想 1 最澄空海集』筑摩書房 1973.8.30)

 

 

 

〔現代語訳〕

 

そもそも裸の枯れ木は、いつまでたっても枯れたままではない。春になれば、芽ばえて花が咲く。厚い氷も、いつまでも氷ったままではない。夏になれば溶けて流れ出すのだ。穀物の芽も湿気があれば発芽し、時至れば実をもむすぶ。

戴淵は陸機にいましめられ、改心して将軍になった。周処は老父にいましめられ、忠孝をつくす人となった。原石がみがかれて宝石となり、鯨の目が夜を照らす明月珠となったという伝説の通りである。

 

物には定められた性質はない。どうして人はいつまでも悪人であり続けることがあろうか。ご縁があれば、愚かな者でも大道を志すのである。教えにしたがえば、凡人も聖賢を目指すではないか。「羝羊」とても、それ自体固定の性質ではない。愚か者もまた愚かなままでいるわけではない。

ゆえに本覚が心の内に起こり、目覚めた者の光が外にかがやき出せば、たちまちに自らの欲望をおさえ、しばしば他の者へ施すようになる。あたかも、樹木の芽が種より芽ばえてつぼみとなり葉がのびるように、善心の芽ばえは次第に生長する。そして花が咲き、実をむすぶように、善心の発展は、神に誓って疑いもない。

 

こうして儒教五常を次第に習い、仏教の十善を仰ぎ称えるようになる。五常とは仁、義、礼、智、信のことである。仁を仏教では不殺と呼ぶ。おのれの身になって人に施すのだ。義はすなわち不盗である。みずから節約して他人に与える。礼はいわば不邪といおうか。五礼に秩序があるのだ。智は不乱である。事細かに決定し、よく道理をとおすこと。信は不妄。口から出したことは必ず実行するべし。

人がこの五つをよく行なえば四季滞りなく、木、火、土、金、水の五行は明らかとなる。国家がこれを行なえば、天下太平となるのである。一家にこれを行なえば路に落ちたものを拾う者はいなくなろう。

我が名を上げ、祖先を顕彰する秘策であり、国を保ち身を安んずる美風なのだ。

これを儒教では「五常」といい、仏教では「五戒」という。名は違えども意味は同一である。

しかし行為が同じであるといっても、その益は異なる。五戒は、悪を断ちきり善を修める根本であり、苦を抜き、楽を得るはじめとなるものだ。

 

(現代語訳 水野聡/能文社 2023.1.18)

 

うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ。(良寛)


うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ。 良寛~『蓮の露』貞心尼



良寛の最期をみとった愛弟子、貞心尼の良寛歌集、『はちすの露』に収められた良寛の辞世の句です。

良寛の最晩年の法弟が、三十歳の美しい尼、貞心尼。二人の出会いから、良寛遷化までの四年余り、師と弟子は深く心を通わせた歌を互いに贈りあいました。
良寛と貞心尼、そしてその歌集『はちすの露』について、詳しくは下記リンクをご参照ください。


1. 良寛落葉の句碑 野島出版


2. 蓮の露(はちすのつゆ)


3. 良寛さんと貞心尼さんの師弟愛


4. 良寛さん から 貞心尼さん への手紙


5. 名言名句 第五十六回 良寛 死ぬ時節には死ぬがよく候



さて、良寛の病いよいよ篤く、危篤の床にあるわが師を悲しんだ、貞心尼の詞書と歌です。


 かかれば昼夜御かたはらにありて、御ありさま見奉りぬるに、ただ日にそへてよわりによわり行き給ひぬれば、いかにせん、とてもかくても遠からずかくれさせ給ふらめと思ふにいとかなしくて

 生き死にの境はなれて住む身にも さらぬ別れのあるぞ悲しき  貞

これに返した良寛の句が実質の辞世となりました。

 御かへし
 うらを見せおもてを見せて散るもみぢ  師

 こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへのたまふいとたふとし

(『はちすの露を読む』喜多上 春秋社 1997)


人は臨終に当たって、何を隠し、何を取り繕う必要があるのでしょうか。
童と無心にまりをつき、在郷すべての人に慕われ、愛された良寛の<裏の顔>とはいったいどのようなものでしょうか。病の苦しさからついもらした弱音なのか。あるいは、決して人にはいえぬ隠し事でもあったのか。

良寛末期の記ともいえる、貞心尼の『はちすの露』には、そんなものは影すらもありません。
「おもての顔もうらの顔もぜんぶよく見ておくれ。良寛はみんなと同じ、弱くちっぽけな人間だけど、お前がいてくれて本当にしあわせだった」
と、尼の手を弱々しくにぎりかえしただけなのでしょう。


 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな

一方、これは良寛、還暦の歳の句です。長岡藩主が、良寛を自らの菩提寺の住持に迎えようと庵を訪れた時、返事の代わりに差し出した句とされます。

「ありがたい仰せです。が、一日の煮炊きや暖をとるだけの落ち葉は、『それ良寛。今日の分じゃ』と、風が門前へ吹き運んでくれます。よって、朝夕せっせと庭掃きもせず、菜は近在の百姓がざるに入れて持ってきてくれる。托鉢にもずいぶんと前から立っておりませぬ。
年寄りで怠け者の良寛に、大寺のさばきは勤まりますまい。この儀はご放念くださいますよう」。
この良寛の句を見た藩主は、無言で庵を辞したといいます。

風の施しを受け、太陽の恩を受け、まさに自然のままで自ら足りる老僧の姿。
そして、この人は最期にあたって、生の枝からはらりと解き放たれ、うらを見せ、おもてを見せながら、本住である大地へと還っていきます。
やがて風がその落ち葉を運び、誰かの助けとなることを願って。