kotonohaananshuのブログ

中世日本文化をこよなく愛するブログ。偉人の名言名句や古典名著、茶道・能狂言・武士道・俳諧・日本庭園・禅(仏教)などについて書いていきます。来るもの拒まず、去る者追わず。

名言名句 第七十回 鳥鳴きて山更に幽なり。

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鳥鳴きて山更に幽なり。 ~王籍『入若耶渓』

 

 

茶席の禅語として古くから親しまれる漢詩の一文です。

この一句のみ書かれることが多いのですが、もとの形は、漢詩の中の次の対句。

 

(原文)

蝉噪林逾静

鳥鳴山更幽

 

(読み)

蝉噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに 

鳥鳴きて山更に幽(ゆう)なり

 

作者は中国、梁の詩人、王籍。「若耶渓(じゃくやけい)」とは、浙江省にある風光明媚な渓流の名です。

 

初夏の一日。公務を離れ、一人渓流沿いの林道を歩く詩人の小さなシルエット。

人が近づくことで、騒がしく鳴いていた蝉の声が一斉に止み、林は静寂に包まれる。

 

深山へと深く分け入っていくと、一声鋭く野鳥がさえずる。その声が消えると、山は深く黒々とした沈黙に飲み込まれてしまうのです。

鳥の一声によって、あたかもこの世界に自分ただ一人が取り残されてしまったかのような、絶対的な山の静寂にはじめて気が付きます。

 

松尾芭蕉の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」や「古池や蛙とびこむ水の音」も、時空を超えた同じ禅境をあらわしているのかもしれません。

 

人は静かな場所に長くいると、その本当の静かさに気が付かくなくなってしまうもの。

鳥がそのしじまを破ることにより、静かさがいっそう深く感じられるのです。

仏修行者はこの意味を転じ、人には平穏で楽しい日常ばかりではなく、辛さや悲しみもまた必要である、と説きます。

人は辛いことに直面すると、こんなことは起こらなければよかったのに、と考えがちですが、まさにその一事により、自分にとってかけがえのないものに、はじめて気づかされるのだ、と。

 

― 鳥鳴きて山更に幽なり

 

今、コロナ禍によって、人と世界の仕組みが大きく変わろうとしています。

人類と地球にとって、いままで当たり前にあり、すでに忘れてしまったもの、しかし本当に大切なものは何だったのかを悟る時が到ったのかもしれません。

 

 

 

 

『入若耶渓』 王籍

 

艅艎何泛泛    艅艎(よこう) 何ぞ泛泛(はんはん)たる

空水共悠悠    空水 共に悠悠

陰霞生遠岫    陰霞(いんか)遠岫(えんしゅう)に生じ

陽景逐廻流    陽景(ようけい)廻流(かいりゅう)を逐(お)ふ

蝉噪林逾静    蝉(せみ)噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに

鳥鳴山更幽    鳥鳴きて山更に幽(ゆう)なり

此地動歸念    此の地、歸念(きねん)を動かし

長年悲倦遊    長年 倦遊(けんゆう)を悲しむ

 

 

【解釈】

この舟はなんと軽やかに浮かび進んでいるのだろう。

天と川面は、はるか遠くへ広がっていく。

朝焼け夕焼けの霞が遠山の洞穴から湧き出て

日差しは渦巻く川の流れを追う。

蝉が騒々しく鳴けば林はいよいよ静まって

鳥が一声鳴けば山は一層深くほの暗い。

この地は帰郷の思いをつのらせるが

長年遠地での勤めに倦み、悲しむばかりである。

 

名言名句第六十九回 大事の思案は軽くすべし。(直茂公壁書)

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大事の思案は軽くすべし。~鍋島直茂『直茂公壁書二十一箇条』

 

 

今回は戦国時代、西国一、二の名将と称された鍋島直茂の名言をご紹介します。

 

 大事の思案は軽くすべし。

 

 原典は、佐賀藩に伝わる、直茂の訓戒を箇条書きにした『直茂公壁書二十一箇条』(元禄五年、石田一鼎編)です。

 同書の同句は『葉隠』話者、山本常朝の家にも伝えられたようで、『葉隠』本文では次のように取り上げられました。

 

 

 直茂公のお壁書に、

「大事な思案は軽くすべし」

とある。一鼎の注には、

「小事の思案は重くすべし」

としている。大事というものは、せいぜい二、三箇条くらいのものであろう。これは普段詮議しているものなので皆よく知っているはず。前もってよくよく思案しておき、いざ大事の時には取り出して素早く軽く一決せよ、との意味と思われる。事前に考えておかなければ、その場に臨んで、軽く分別することも成り難く、図に当たるかどうかおぼつかない。しかれば前もって地盤を据えておくことが

「大事な思案は軽くすべし」

といった箇条の基本だと思われる。

 

(『葉隠 現代語全文完訳』聞書一/四六 能文社2006)

 

 

 一般的に分別や事の大きさ、人の評価などにおいて、「軽さ」は否定的に、「重さ」は肯定的に

比喩されることが多いものです。しかし、軽さはすべて悪で、重さがすべて良いというわけでもありません。文化、思想、芸術の領域では、“重さを突き抜けた軽さ”が最上位をあらわすことが往々にしてあります。偉人の言動や名人芸などには、シンプルで、どことなく飄々とした軽さが感じられるものです。

 

 とりわけ日本文化の諸相において、「重さ」「軽さ」が修行の指標として示される例が少なくありません。たとえば、茶道では次のような「軽さ」「重さ」の案配を教えています。

 

◆利休百首、「所作の軽さ」

 

何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ

 

 利休の道歌を茶の湯修業の標語として集めた、とされる「利休百首」。上は道具の扱い、所作の「軽さ」「重さ」について指導したものです。

 これは、たとえば道具をひょいと軽く取る、ということではなく、その後の所作もすべて見通したうえで躊躇なく一直線にまず道具を手にする。そして、床であれ畳であれ、置く場所にて道具のすわりをしかと見届けて、そっと手を放せ、と教えたのです。

 

 

山上宗二記、「薄茶が真の茶」

 

一 点前

 薄茶を点てることが、専らの大事となる。これを真の茶という。世間で、真の茶を濃茶としているが、これは誤りである。濃茶の点てようは、点前にも姿勢にもかまわず、茶が固まらぬよう、息の抜けぬようにする。これが習いである。そのほかの点前については、台子四つ組、ならびに小壺・肩衝の扱いの中にある。

(『山上宗二記 現代語全文完訳』追加十体 能文社2006)

 

 ここは「軽さ」「重さ」の代わりに、芸道でよく用いられる位の概念「真」「行」「草」をあてたもの。真の位がもっとも重く、草の位は軽い。本来、格式の高い濃茶が「真」、侘びの心で茶を喫する薄茶が「草」のはずですが、宗二は、薄茶こそ真の茶であるとしています。これは草庵小座敷では、侘びの心をなによりも尊ぶゆえに、粗茶である薄茶こそ侘び茶の根本であるとする、利休の教えを表したものでしょう。

 

 

芭蕉の「軽み」讃

 

    元禄三年のとしの大火に庭の桜もなくなりたるに

    焼けにけりされども花は散り済まし   北枝 (『卯辰集』)

    十銭を得て芹売りの帰りけり      小春 (『卯辰集』)

 

 

蕉門金沢俳壇の二人の句です。北枝は芭蕉が『奥の細道』の旅の途次、金沢で出迎えた門人、小春(しょうしゅん)は、同じ時に芭蕉門に弟子入りした地元の薬種商。元禄三年、金沢の大火により北枝の家は燃え、庭の桜木も焼け失せてしまいました。「しかし花も散り失せた後でしたし」と自ら慰める句。そして二句目の小春に対し、芭蕉は書簡を寄せて

「両御句珍重、中にも芹売りの十銭、生涯かろきほど、わが世間に似たれば、感慨少なからず候」

と激賞するのです。

 侘び寂びと評される芭蕉の句風。晩年の芭蕉はさらに句境を進め、「軽み」を追求していきます。古い門人たちに、なかなか理解されなかった芭蕉の「軽み」を入門したばかりの新弟子が巧まず吟じたのです。ちなみに江戸時代の十銭は現代の貨幣価値では約250円。わが世間に似たれば(自分の人生と同じだ)と、芭蕉はこの句に称賛を惜しみません。

 

 たとえば俳句や文芸では、技術や経験の蓄積に応じて「軽→重→軽」と成長、発展していくのかもしれません。「行商人は今日も250円もらって帰った」には、人のなりわい、人生の歩みが言い尽くされて、初心の「軽」から、究極の「軽」へと一息にはばたく自在の翼があるのです。

 

 

大事の思案を「重く」することは、一所を堂々巡りする死に手です。何事にもとらわれぬ自在の境地を先人は「軽み也」と教えてくれました。

 

寺子屋素読ノ会『南方録』講座、9月より再スタート。

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2020年9月11日(金)より、寺子屋素読ノ会のC〔南方録〕講読クラスが始まります。

http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf

 

南方録クラスは、都合によりしばらく休止していましたが、今回複数名の受講者より再開のリクエストをいただきましたので、冒頭より改めて読み始めることといたします。

 

千利休の侘び茶を伝える、茶道史を代表する茶書。この機会に、ぜひご一緒にその深遠な世界にチャレンジしていきましょう。初心者の方にも、茶道史の背景や基本的な侘び茶の基礎知識をレクチャー。画像や茶人の豊富な逸話にも触れながら、楽しく学んでいけます。

 

◆Cクラス〔南方録〕15:00-16:30 新橋生涯教育センターばるーん(教室は当日ロビーの掲示板を参照) 

受講料:1500円 テキスト:『南方録』西山 松之助 校注(岩波文庫 1986/5/16)

 

【空海の名言】身は花とともに落つれども、心は香とともに飛ぶ。

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弘法大師空海漢詩文集『性霊集』に収められた名言です。

人は亡くなれば、その身は朽ち果ててしまうけれど、その心はかぐわしき薫りとなって広大無辺の世界へと広がっていく。

まずは、『性霊集』の空海の名言を含む章を全文現代語訳にてご紹介しましょう。

 

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『性霊集』第八巻(続遍照発揮性霊集補闕鈔) 現代語訳

 

 

 藤左近将監が亡母のため、三七日忌法要を行った時の願文

 

 先師は、このように仰った。色をはらむのが空であり、空を呑むのが仏である、と。

よって、仏の三密*1はどこかに偏在することなどあろうか。仏の慈悲は天の如く人々を覆い、地の如く人々を載せるのだ。慈悲の「慈」は苦を抜き、「悲」は楽を与えるもの。

いわゆる大師はなにゆえ仏と別者であろうか。アーリヤ・マハー・マイトレーヤ・ボーディ・サットヴァ、すなわち弥勒菩薩に他ならないのである。法界宮に住んで大日如来の徳を助け、兜率天*2に居て釈迦如来の教えを盛んにしておられる。

 

弥勒菩薩はすでに過去、悟りを開かれているが、人を救うため仮に釈尊の王位を継ぐべく東宮におられるのだ。そして一切の衆生をわが子として塗炭の苦しみから救済される。

この広大無辺なる救済者を何とお呼びすればよいのであろうか。

 

 伏して思うに、従四位下藤原氏の娘であった故人は、はじめ婦人の四徳を磨き、後に仏教の三宝を崇めた。朝には俗世を厭い、夕には弥勒菩薩の浄土を願われたのだ。

 たとえ身は花とともに落ちたとしても、心は香とともに飛ぶ。折々に長寿の大椿を登り、しばしば仙境の桃を味わうことを願ったのである。しかしいったい誰が予想できたであろうか。

秋の葉はもろくも落ち、夜の灯はたちまちに消えてしまうことを。

 今は花のかんばせを映すこともない、愛用の鏡。この形見を見るにつけ悲しみは深まるばかり。

 

↓続きはこちら 【言の葉庵】HP

http://nobunsha.jp/meigen/post_241.html

 

【お知らせ】6月12日より寺子屋素読ノ会を再開します。

2020年6月12日より、3か月ぶりに寺子屋素読ノ会を再開することとなりました。

http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf

 

今回ご参加の皆様は、施設の感染対策にご対応の上ぜひご来館ください。

 

クラスB「能の名曲」13:30~は今回、能〔国栖〕。

壬申の乱に取材した、古代日本国家成立のドラマです。

本曲はシテのみならず、子方・狂言など各役が、舞台狭しと活躍する名作能。

 

日本の古霊場、奈良吉野の山奥に住んだ原日本人「国栖族」の来歴と大和朝廷との

邂逅を『宇治拾遺物語』などから読み解いていきます。

観阿弥が決して舞うことはなかったという「天女の舞」が見られるのも同曲ならでの楽しみ。

ビデオで名場面を鑑賞しながら、能の歴史と舞台の秘密を学んでいきましょう。

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『今昔物語』家で読む名作古典(現代語訳)シリーズ

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【言の葉庵】家で読む名作古典シリーズ、今回は『今昔物語』より

本朝部 巻十九第十四「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」をご紹介します。

 

人や獣の殺生をなんとも思わぬ極悪人の源大夫が、ふとしたきっかけから

仏教信仰と出会い、改心して感動の奇跡を起こす物語。

まずはこのような書き出しから、長い魂の遍歴が始まるのです。

 

 

 今は昔。讃岐の国多度の郡○○郷に、名は知れぬが源大夫という者がおった。

はなはだ気性が荒く、殺生も平気である。日夜明け暮れ、

山や野で鹿や鳥を狩り、海川にのぞんでは魚を獲った。

また人の首を切り、手足を折るようなことも日常茶飯である。

 源大夫、因果を悟らずして三宝を信じぬ。

むろんのこと法師などという者をことさら嫌い、

側に寄ることもなかったのだ。

 

このように極悪非道の悪人ゆえ、村人はみな恐れをなしておった。

 

……続きはこちらから↓

http://nobunsha.jp/blog/post_239.html

 

名言名句 第六十六回 二宮尊徳 艱難に素して艱難に行ふ。

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艱難に素して艱難に行ふ。~二宮尊徳『報徳記』第六巻

 

二宮金次郎(尊徳)の伝記、『報徳記』にある尊徳の言葉です。

もとは中国の四書の一、『中庸』にあった句からの引用ですが、原典では以下の句形となっています。

 

 君子その位に素して行い、その外を願わず。

 富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い

 夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。

 君子入るとしても自得せざるなし。

 

そもそも儒教の〔中庸〕とは平凡ということではなく、君子がもつべき偏らない考えと判断を目指したもの。上の「患難に素しては患難に行う」は、非常事態に直面した時は、非常時の対応を躊躇なくとる、という教えです。つまり君子は、その場その場における最善の選択をし、その結果を泰然と受け入れる者と定義されます。

余談ですが、全国の学校にある金次郎の銅像。彼が読んでいる書物は『大学』あるいは『中庸』であるともいわれます。

 

さて尊徳は、この句を字形は異なりますが、ほぼ原意に即して引用し、『報徳記』の中で他藩の家老を教諭します。

天保八年(1837年)、小田原候の命により野州桜町で仕法を実施していた尊徳。そのもとへ、廃村復興の実績を聞きつけた他藩の下舘候が家臣を派遣してきました。天明の凶荒以来、荒廃が進み、すでに領内経営が破綻しつつある自領へ尊徳の仕法を実施する、その依頼のためです。

当時、野州に加え、自国小田原の復興も担う尊徳は忙殺され、さらに他藩の復興・救済を引き受ける余裕はありません。依頼を受けるまで紆余曲折がありましたが、ともかくも下舘再興を手伝うこととなります。その後、桜町を訪れた下舘の家老、上牧甚五太夫に非常時の治政を指南する言葉に、「艱難に素して艱難に行ふ」を引用し、驚くべき献策を進めます。

同段落を『報徳記』から、現代語訳で以下にご紹介します。

 

 

 

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『報徳記』~二宮金次郎伝 現代語訳

 富田高慶著、水野聡訳

 

 

【巻六】

 

 

 尊徳が、家老の上牧を諭していった

 

 

 ある時、尊徳は家老の上牧を諭していった。

「さて、国家の衰貧にあたって、君の禄高は表向き二万石としていますが、

租税の減収によって実質は三分の二でしょうか。それならば藩士の恩禄もその減少に

あわせなければなりません。これが衰時の天命であり、君の禄に限界があれば

いたしかたありません。

 天命衰貧の時にあたっては、『艱難に素して艱難に行う※』ことが臣下の道では

ありませんか。それなのに国の減収を知らず、自らの俸禄の不足を憂い、

あるはずのない米粟をほしがり、怨みをもつ。

 国体の衰弱を知らないためとはいいながら、まことに浅ましいというより

他はないのです。

 国の為政者たる者、天分を明らかにし、衰時の自然をわきまえ、国の混乱を

治め、貧しさを受け入れて、もっぱら国家に忠義を尽くさせることが、その職の

最優先項目です。

 にもかかわらず、家老以下この天命をわきまえず、どうして一国を諭すことが

できましょうか。さらに家老がこの天分を明らかに知り、一国を諭したとしても

なお怨望の声は止み難いもの。どうしてかといえば、衰時の天命に従って

国が持たぬものを渡す方法がないことを明らかにしても小禄の家臣たちは

こういうからです。

『家老以下、現在の高臣方の俸禄はわれらの十倍もある。減給されたところで

どうしてわれらほど困窮することがあろうか。人の上に立ち、高禄を受け取って、

下々の艱難を見もせずに、天命衰時にあたって、ないものは渡せぬ、艱苦を

受け入れ、もっぱら忠義に励め、とはどういうことだ。執政の任とは、仁政を布き、

国の憂患を除き、艱難を救って、衰退した国を再び活性化させることが、

その仕事ではないのか。もしもこの任にありながら、その仕事ができぬので

あれば、それは自らの職を貪るばかり。なにゆえすぐに辞任しないのか』

 

 これが怨嗟の止まない理由です。このように怨み、要求することは、

もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているのですが、こうした心を

持たぬようにさせることが、執政の道です。

 さて、国中の怨望を、弁明せず、理解を待つまでもなく、たちまち消滅させ

艱難を受け入れ、忠義の心を奮い立たせる道が、ここに一つだけあります。

 あなたがこれを実行しなければ、国難を去り、国家の艱難を救うことができません。

これを行いますか、行いませんか」。

 

 上牧はいう。

「藩の人々の人情はまこと先生のご明察どおりです。私は長年これを

憂慮しておりましたが、どうすることもできません。今、自分の行いで一藩の

卑しい心をなくすことができたなら、国の幸いこれに過ぎるものはありません。

その道とはどのようなものですか」。

 

「その道は、他でもありません。ただ、あなたがあなたの恩禄を辞すればよいのです。

そしてこのようにいいなさい。

『今、国家の困窮はここに極まった。君は艱難を尽くしておいでになるが、

臣下の扶助もできず、国家の艱難もはなはだしい。私は家老の任にあって、

上は君の心を安んずることができず、下は一国を支えることもできぬ。

これみな私の不肖の罪である。

今、二宮の力を借りて、衰国の再興に取り掛かる。まず、私の恩禄を辞退し、

多少なりとも藩費の一端を補い、無禄にして心力を尽くすことが私の本懐なのだ』

 と、主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞し、国家のために万苦を担う時、

群臣はきっというでしょう。

『ご家老は国のために心肝を砕き、再興の道を行い、恩禄を返上して忠義に

励んでおられる。それなのにわれらは国家に力を尽くさず、むなしく君禄を受けている。

どうしこれが人臣の本意といえよう。たとえ禄高が十分の一であったとしても、

家老にくらべれば過ぎたものだ』

 と、長年の怨望は氷解し、はじめて徒衣徒食の罪を恥じる心が生まれ、日々生計の

工夫に努力し、他人を怨まず人を咎めず、いかなる苦労にも甘んじ、これを

常としこれを天命とし、婦女子にいたるまで、不平不足の思いが消え去ります。

 そうして国中の者を諭さずして、今の艱難を受け入れ、忠義のかけらなりとも

勉めよう、との心が生まれます。

 

 これが艱難の時にあたって、家老たるもの一国のためにわれ一身を責めて、

人を責めず、大業を行う道です。そしてただ、これを行えないことだけが

心配です。この道を行わず、人の上に立って高禄を受け、言葉だけで人を

従わせようとするならば、ますます怨望は盛んに起こり、国家の災いは

いよいよ深くなっていくでしょう。これではどうして、衰退した国を再興し、

国家を安定させることができましょうか」。

 

 上牧はこの言葉に感動していう。

「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」。

そして下館へ帰り、主君に言上し、すみやかに恩禄三百石を返上した。

 

 微臣の大島(儀左衛門)、小島(半吾、足軽)という者は、これを聞いて感動し、

二人とも自俸を辞し、無禄で奉仕した。

 尊徳はこれを聞いていった。

「『上これを好むときは、下これより甚だしきものあり』(孟子)という。

上牧が一人、奇特の行いを立てれば、二人がさらに同じ行いをした。

古人の金言うべならずや」。

 そして、上牧、大島、小島、三人の一家を支援するために、桜町から米粟を

送ってその艱苦を救ったという。

 

 

 筆者(富田高慶)は思う。国家の憂いを憂いとなして、一個人の憂いを憂いとせず。

日夜、身を尽くして国事に任ずることが、人臣の常の道ではあるまいか。

 いやしくも恩禄、名誉、利得を目指し、阿諛追従する輩とともに君に

仕えることなどできようか。先生はかつてこういった。

「君に仕える時、その頭から利益・俸禄の離れぬ者は、商売人が物を

売る時、価格で競争するようなものである」。

 君子が君に仕える時、どうしてそのようであってよいものか。

 

 

※艱難に素して

『中庸』「患難に素しては患難に行う」より

 

 

 

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尊徳が復興を手掛けた他領の仕法では、相馬とならんで大きな成果を成し遂げた下舘領。

すべては、一身を瞬時に捨てた、家老上牧の、

「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」

の一言から始まったのです。

 

尊徳から同様の教諭を受け、かつ下舘よりも恵まれた環境にありながら、頓挫、中断した他村の仕法の例がいくつも『報徳記』に記録されます。

そこが単なる立身出世伝に終わらぬ『報徳記』の懐の深さであり、いつの時代にあっても人間というものが不可解な行動をとる、そうした存在であることを教える貴重な社会実践の書だといえるのではないでしょうか。

 

 

◆記事掲載元ホームページ

千年の日本語を読む【言の葉庵】

http://nobunsha.jp/