kotonohaananshuのブログ

中世日本文化をこよなく愛するブログ。偉人の名言名句や古典名著、茶道・能狂言・武士道・俳諧・日本庭園・禅(仏教)などについて書いていきます。来るもの拒まず、去る者追わず。

逆もまた真なり。【逆説名言辞典】

【言の葉庵】ホームページは名言名句をご紹介するサイトです。

千年の日本語を読む【言の葉庵】能文社 (nobunsha.jp)

中世日本を中心に、世界中からこれまで多くの偉人の格言をご案内してきました。

今振り返ってふと気づいたのが、本来の意味と真逆の言い回しを意図的に使用する“逆説的”な名言が多いことです。

急がば回れ」などのように、ストレートに表現しないことで、注意を呼び、深く意味を考えさせる逆説表現。一瞬、誤りのようですが、立ち止まって思いを巡らすと偉人の深い意図に至り、長く心に刻まれるものです。

【言の葉庵】HP過去掲載分も含め、いくつかの味わい深い逆説的名言をご紹介しましょう。

 

 

 

【逆説名言辞典】

 

風姿花伝世阿弥

 

・上手は下手の手本、下手は上手の手本。

上手が下手の手本になるのは当たり前。だが、下手を見て、上手が「あんな下手から何を学ぶのだ」という自身の慢心に気づかせてくれるから先生となりお手本となる。

 

秘すれば花なり。

本当の秘伝は、いままで誰も気づかなかったからこそ秘となり、絶大な効を発する。その内容ではない。

 

・初心忘るべからず。

初志貫徹という意味ではない。その時々、年代のもっとも得意であったもの(芸や考え)を「あれはもう幼い、古い」と捨てず、自分の中に保ち続け、必要に応じて取り出して応用する。

 

 

歎異抄親鸞

 

・善人なをもて往生す、いわんや悪人をや。

浄土宗の教えでは、自らを救済できる善人でも亡くなれば往生できる。ましてや自らを救うすべのない極悪人こそ、阿弥陀様がもっとも哀れに思い救ってくださるのだ。

 

 

源平盛衰記平敦盛

 

・仇をば恩で報うなり。

人と人とは前世の縁で導かれるもの。もともと敵同士であったわけではないので、仏の慈悲で敵にも報うのだ。

 

 

葉隠鍋島直茂

 

・わが気に入らぬことが、わがためになるなり。

良薬口に苦し、のたとえの通り。トップの耳に入るのは追従の言葉が多く、忠義無私の諫言は、受け入れ難いもの。

 

・大事な思案は、軽くすべし。

重要な議案は会議のメンバーすべて、日頃から熟慮に熟慮を重ねているはず。提議されれば、すばやく一決し、実行に移されるような意思決定システムを作っておくこと。

 

・耄碌は、得意な分野から進んでくる。

人は加齢とともに記憶力が衰えても、自負心だけが強いままである。

 

 

『紹鷗遺文』武野紹鷗

 

・すべての芸に、下手の名をとるべし。

一芸の名人になるためには、他芸に目移りしてはならない。

 

 

山上宗二記』千利休

 

・上を粗相に、下を律儀に。

賓客には飾らず接し、並みの客は丁寧にもてなすべし。

 

 

貞観政要』唐の太宗

 

・楽しみは極むべからず。楽しみを極めれば悲しみを生ず。

 

 

『スッタニパータ』釈迦

 

・人々が安楽と称するものを、聖者は苦しみであるという。

 

 

『道徳経』老子

 

・知る者は言わず、言う者は知らず。 第五十六章

高い見識のある者は誤りを恐れて無口となり、

浅薄無知なものほど聞きかじったことを得意げにぺらぺらしゃべるものだ。

 

・学を絶てば憂い無し。

学ぶことによって、かえって苦悩が深くなる。 第二十章

 

・曲なれば則ち全し、枉がれば則ち直し。第二十二章

まっすぐな木よりも、曲がっている木こそ、その天寿を全うできる。

 

・道は常に無為にして、而も為さざるは無し 第三十七章

道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている。

 

・知りて知らずとするは上なり。 第七十一章

知っていても知らないとするのが最上である。

【言の葉庵】千利休講座、4/5読売新聞に掲載されました。

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4/16(土)11:00~ 

 よみうりカルチャー 大手町スクール

 「生誕500年 千利休が残した茶の湯の歴史」 

講師:水野聡(古典翻訳家)

 

千利休の生涯と、利休が大成した茶道の歴史をたどる初心者向け茶道史講座です。

※2022/4/5 読売新聞 朝刊(都内版)に、講座の記事が掲載されました。

 

 

 

【言の葉庵】カルチャー情報

http://nobunsha.jp/img/kozalist.pdf

 

4/8(金) 10:00~16:15

〈東京新橋 寺子屋 素読ノ会〉 

※言の葉庵オフィシャル定期講座

講座名:Aクラス『葉隠』 第二金曜日 10:00~11:30 

     Bクラス『能狂言入門』 第二金曜日 13:00~14:30

     Cクラス『南方録』 第二金曜日 14:45~16:15

http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf

 

 

4月19日(火) 10:30~12:00

〈東京都港区・NPO法人 新現役ネット〉

NEW! 定期講座:古典に学ぶ 『風姿花伝』を通読(オンライン対応講座)

https://www.shingeneki.com/common/details/forumevent/3455

 

 

4/21(木)  10:30-12:00

〈東京都渋谷区・よみうりカルチャー恵比寿〉

〔定期講座〕 千利休と侘び茶の世界

千宗旦の茶書を読む~

 「江岑夏書」と四代江岑宗佐

https://www.ync.ne.jp/ebisu/kouza/202104-01510201.htm

 

 

4/26(火) 13:00~14:30

〈東京都港区・日本文化体験交流塾〉

定期講座:歴史上の人物を踏まえた「禅と日本文化」(鈴木大拙著)講読会

 第4回 第2章/禅と美術②

https://www.ijcee.jp/culture/mizuno-zen-japanese-culture2022/

 

 

4/27(水)  13:00-14:30

〈東京都目黒区・自由が丘産経学園〉

定期講座:お能鑑賞 はじめの第一歩

 ~白洲正子が愛した能。~

 第四回正子と能面

https://www.sankeigakuen.co.jp/search/detail.php?SC=16&CC=427663&OS=00

 

 

5/3(祝) 10:30-12:00

横浜市・よみうりカルチャー横浜校〉

定期講座:千利休に学ぶ茶の湯  ~千利休の侘び茶の世界~

 利休の逸話。長闇堂記

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202204-01510201.htm

 

名言名句第七十二回 君看よ双眼の色、語らざるは愁い無きに似たり。

君看よ双眼の色、語らざるは愁い無きに似たり。 ~出典不詳。『槐安国語』に白隠の句あり

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江戸中期の禅の高僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)の名句です。

臨済宗大徳寺派の祖、大燈国師の語録に、白隠が評語と下語を付した、『槐安国語』に収められています。(ただし白隠のこの句の出典は不詳とされています。くわしくは下記リンクを参照してください。)

 

良寛「君看雙眼色 不語似無憂」の典拠について(ぱぽ書房)

https://bit.ly/3rUbjy5

 

同書より、大燈国師の元の句(千峯雨霽露光冷から始まる、左の七字四行の句)と、それに付した白隠の句(右の君看雙眼色。不語似無愁以下の四行)をご紹介しましょう。

 

 

千峯雨霽露光冷   君看雙眼色。不語似無愁

月落松根蘿屋前   眼中無見刺。耳裏絶聞塵

擬寫等閑此時意   若識琴中趣。何勞絃上聲

一溪雲鎖水潺潺   莫嫌襟上斑斑色。是妾燈前滴涙縫

 

 

禅語はそもそも詩や文学ではなく、悟りを開くための修行として唱え、学ぶべきもの。

和歌や漢詩のように、解釈し、観賞するものではありませんが、時としてその語感の美しさに、祖師の深い教えに到達できなくとも、感動し、魂がふるえることがあります。

 

「君看よ双眼の色」も、禅修行者はもとより、古くから書家や文学者に愛唱され、度々引用されてきました。

もっとも有名なのが、良寛の書であり、二行双幅のものと、一行のものがあります。榊莫山はこの一行ものを良寛の「涅槃の境」と称しています。

芥川龍之介はこの句を好んで自ら色紙に書き、『羅生門』の扉を飾らせ、作中人物にも書かせています。

 

君看よ双眼の色、語らざるは愁い無きに似たり。

 

人は悲しみや苦悩が深ければ深いほど、静かに澄んだ目をしているように見える。

名句の解釈は、語り手自身の底を見せてしまうものですが、今一度声にも出して味わってみたいものです。

 

『禅林句集』(岩波文庫)の解説では、禅に傾倒した詩人、高橋元吉の次の詩が、この句を思い起こさせるようだ、としています。

 

 

みづのたたえのふかければ おもてにさわぐなみもなし

ひともなげきのふかければ いよよおもてぞしづかなる

 

(『高橋元吉詩集』昭和37年)

 

 

 

本日放送、NHK Eテレ〈美の壺〉鬼

本日、1/30(日)23:00~ NHK Eテレにて〈美の壺〉~鬼が

放送されます。

世阿弥の鬼の芸について、【言の葉庵】(水野聡)が取材協力

いたしました。

同放送は2016年の番組の再放送です。

 

◆【言の葉庵】関連リンク

 

 

名言名句 第七十一回 孟子 道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む。

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道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む。 ~『孟子』離婁上 十一

 

 

中国戦国時代の儒家、孟軻(孟子)の名言です。

出典は四書の一、『孟子』の離婁上 十一より。

以下、原文、読み下し文、解釈をご紹介しましょう。

 

 

【原文】

道在爾而求諸遠

事在易而求諸難

人人親其親

長其長而天下平

 

【読み下し文】

道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む。

事は易きにあり、しかるにこれを難きに求む。

めいめいその親を親とし、

その長を長として、しかるに天下平らかなり

 

【解釈】

人の道、正しい道は、実はすぐ近くにある。

しかし人は、高遠な理想を追って遠くを見がちだ。

物事のあり方も本体はいたってシンプルなもの。

なのに、もってまわってより複雑に考えたがるのである。

ただ祖先を敬い、年長者を大切にすれば人の道は平らかになる。

 

 

人はとかく、遠く高みにあるものに憧れ、ありがたがるものです。

また、頭脳明晰な人ほど選択肢が多いので、物事を分析しすぎ、

かえって複雑にしてしまいがちです。

 

 

大切なのは、自分の近くにあることに、今一所懸命に取り組むこと。

より早く、より遠くに行こうと、はるか彼方を見て走ると

足元の小さな石につまずきます。

 

 看脚下 ―

 

人生が急に闇に包まれてしまった時、「まず足元を見よ」と禅の公案が教えてくれます。

(『碧巌録』 圜悟克勤)

 

若い時にはなかなか気づきませんが、自分の為すべきこと、すなわち道は、年を取れば、意識し始める前に「なんだ。もうすでに歩いていた」と悟るはず。

 

「道」とは何か。

孟子の趣旨から少し離れますが、例えばこの句の「道」を「幸せ」に置き換えてみましょうか。

 

 幸せは近きにあり、しかるにこれを遠きに求む ―

 

理想のパートナーを求めて。あるいは、誰も成し遂げられなかった偉大な目標に向け、若者は情熱を傾けることがある。

それがかなえば死んでも悔いはない、と。

 

歌人与謝野晶子は、ひたむきに仏の教えを語る、若き出家に恋をする。

そしてこんな歌を贈りました。

 

 やわ肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君

 (『みだれ髪』)

 

すぐ近くにある幸せに気づきもせず、人の道から仏の道へと渡ってしまった君。

今も君の肌の下に、あつき血汐が脈々と流れているのではないですか ―

 

いまだ仏道と人道の間で揺れ動く「君」の本心を見透かすように晶子は高らかに歌います。

 

煩悩を断ち、難行苦行のすえに高僧となり、衆生を済度する仏の道。

近くの人と結ばれ、子を為し、家族睦みあい、平凡ながら実り豊かに過ごす人の道。

 

いずれも立派な道です。

 

愚直に己の業に生涯励み、妻を愛し、子を慈しみ、親へ尽くす。

たとえ偉業を達成できなくとも、それが幸せであり、まごうかたなき人の道です。

道には、小さな道や大きな道などありません。

人の前には、ただ一本の道しかないのですから。

 

佐渡と世阿弥伝説

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今日の能を大成し、『風姿花伝』、『花鏡』などの能楽理論書を多数著述した世阿弥

日本の文化史、芸能史において並びなき偉人とされますが、晩年幕府より罪を受けたため、その人生の最終局面は歴史に記されず、六百年後の今も謎に包まれています。

 

 なぜ佐渡へ配流となったのか?

 その罪状は何か?

 いつ、どこで亡くなったのか?

 

 瀬戸内寂聴の小説『秘花』に描かれたように、果たして世阿弥佐渡でその生涯を終えたのでしょうか。今回は「佐渡世阿弥伝説」と題し、佐渡での世阿弥の足跡をたどりながら、晩年の実像に迫ります。能の歴史の謎にささやかでも光を当ててみたいと思います。

 

 

世阿弥と足利幕府三将軍

 

 若年・壮年・老年期の世阿弥の生涯は、足利将軍家三代の盛衰とまさに歩調をあわせたようなものでした。

 ここでは三代将軍義満、四代義持、六代義教ら、三人の為政者と世阿弥の人生の交わりをたどってみます。

 

〔三代 義満〕

応安七年(一三七四)、観阿弥一座京都今熊野の演能の興行に、時の将軍義満がはじめて来臨し熱心に観賞しました。観阿弥世阿弥の芸に心を奪われた若き将軍は、以降観世座に厚い庇護を与えることになります。

さらに関白二条良基佐々木道誉、義満同朋衆の海老名南阿弥ら公卿・大名・貴族も支援を与え、観世父子は洛中の名声を一身に集めることに。若年期から青年期の世阿弥は順風満帆の舞台生活を送りました。

同時期義満は、世阿弥のライバルである犬王道阿弥も贔屓役者としたものの応永十五年に没するまで、観世座に変わらぬ助力を与え続けたのです。

 

〔四代 義持〕

 応永十五年(一四○八)義満が没すると義持の時代となりました。

義持の時代、能の中心は申楽から田楽へ、そして世阿弥から田楽の旗頭増阿弥へと移って行ったのですが、それは申楽全体が将軍の支持を失ったということであって、世阿弥または観世座だけが迫害されたということではありません。

応永十九年から二十九年までの記録によると、申楽を義持が見物したのは応永二十四年の興福寺四座立合い申楽一回であり、その間田楽の興業を十六回も見物しているのです。この間、観世座は遠国や田舎を渡り歩いてやっとのことで一座を維持するという状況であったと想像されます。

こうした中、世阿弥の関心は能楽論と能本作りに集中して行ったと思われます。これらの作品の制作時点がはっきりしているものは数が少なく、大半は記録もありませんが、義持が没した応永三十五年(一四二八)までの間に大半のものが制作されたことは間違いなく、義持の治政期と世阿弥創作期は、面白い一致を示しているのです。

 

〔六代 義教〕

「万人恐怖」と評された暴君義教の時代、晩年の世阿弥の人生は悲劇の坂を転がり落ちていきます。

義教が贔屓とし、生涯一貫して支援したのが、世阿弥・元雅と対立していた音阿弥元重(世阿弥甥)でした。将軍就任前、青蓮院門義円の時代に音阿弥の勧進猿楽を後援したのをはじめとして、将軍になった正長元年の室町殿における演能、翌永享元年正月の仙洞御所における演能も音阿弥一派によって行なわれました。

そして以降、立て続けに悲運と不幸が老いた世阿弥を容赦なく襲うのです。

 

・永享元年 世阿弥父子は仙洞御所への出入りを禁ぜられる。

・永享二年 元雅の醍醐清滝宮の楽頭職が世阿弥父子より剥奪され、音阿弥に任ぜられる。

・同年 世阿弥次男元能が《申楽談儀》を残し、出家する。

・永享四年 観世座太夫元雅が父に先立って、伊勢安濃津にて客死。

・永享六年 世阿弥72歳にて、突如佐渡へ配流となる。

 

悪政を重ね、大名・公卿はもちろん庶民をも恐怖に陥れた義教は、嘉吉元年(一四四一)ついに、守護大名赤松満祐の手で殺害されることになります(嘉吉の変)。所は赤松邸、奇しくも音阿弥の演能の最中の出来事でした。

 

 

世阿弥配流の理由

 

永享六年(1424年)五月、将軍義教の命により、世阿弥佐渡へ配流となりました。後年、秀吉による千利休賜死事件と共に、世阿弥佐渡配流は、重罪に当たるほどの確たる理由が見当たりません。中世日本文化史最大の謎です。しかし、以下三つの理由が現在仮説となっています。

 

1.世阿弥・音阿弥芸事対立説

音阿弥の観世大夫就任に際して、世阿弥の数々の芸道書を音阿弥に譲るようにとの義教の命令を、世阿弥が拒否したため。

 

2.観世南朝

上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるとしています。義教の迫害から逃れ伊賀の氏族越智に身を寄せた元雅が、北朝足利将軍家によって暗殺されたとの説もあり、政治的な抗争に巻き込まれ、佐渡へ流されたという説です。

※参照URL 上嶋家文書(観世福田系図)

https://bit.ly/3yJ0TlH

 

 

3.日野義資参賀連座

世阿弥が義教嫡子誕生に際し、義教妻の兄弟でありながら、政敵である日野義資邸での参賀に列席した罪を問われたというもの。当時義資は義教の勘気を被り、謹慎中の身でした。この祝いに、義資邸を訪れた公卿や僧侶30~40名が義教の怒りに触れ、所領没収など即座に罰せられたといいます。世阿弥観阿弥作『太子曲舞』の詞章をこの祝いのために書き換えていました。義資に披露し、祝賀の席で謡ったものかもしれません。

 

 

世阿弥佐渡の配所

 

 当時おそらく京都に居宅のあった世阿弥が、突然配流の命を受け、若狭小浜より流人舟にて海路を佐渡へと送られた行程を、世阿弥佐渡にて執筆した小謡集『金島書』にたどることができます。

 

 若狭小浜より船に乗って佐渡大田の浦(現畑野町多田)に世阿弥一行は到着。当初現在の佐渡市役所付近にあったといわれる新保城万福寺※1 に配所されますが、本間氏族の騒乱が起こったため、同年秋から冬ごろ、泉※2 に移りました(現在の正法寺)。ここで世阿弥は、順徳上皇の配所である黒木御所跡を訪ね、小謡集『金島書』を書き上げたのです。


 正法寺には、県指定文化財(彫刻)の神事面べしみがあります。鎌倉時代後期~南北朝期の作といわれ、県内では最古の面。世阿弥が祈祷のため佐渡へ携行したともいわれ、島内干ばつの折、世阿弥がこの面を着けて舞ったところ大雨が降ったため「雨乞いの面」とも呼ばれています。

 また境内には世阿弥が腰掛けたといわれる腰掛の石も残されているのです。

 

※1. 世阿弥の配所1 万福寺

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※2. 世阿弥の配所2 (正法寺)

http://nobunsha.jp/img/haisho%202.jpg

 

 

世阿弥佐渡での暮らし

 

 佐渡での世阿弥の生活を伝える記録はありません。ですが、世阿弥最晩年の絶筆とされる、書簡と作品が残されており、七十を過ぎ、配流されてなお能と芸術への情熱を失うことなく、いつか赦免され、都へ帰る日への望みを捨てなかった世阿弥の面差しがありありと感じられるのです。

 

 

〔金島書〕

 

 佐渡配流中に世阿弥が書いた紀行文ふうの小謡曲舞集。吉田東伍博士が、明治四十二年(一九○九)に発見し公刊した『世阿弥十六部集』(能楽会刊、池田信嘉代表)の中で初めて紹介され、世間を驚かせたのです。

 同書は世阿弥に関する学問的研究の端緒を開いたとされ、今日でも高い評価を受けていますが、『金島書』(吉田氏は「金島集」と紹介している)の発見によって、世阿弥の配流が一般に知られることになり、この高名な芸術家の最晩年の動向、および室町時代佐渡の国情をかいま見る貴重な書物ともなりました。

 

 「若州」「海路」「配処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」の七篇の詞章から成り、最後に無題の「薪神事」一篇が奥書とともに添えられています。

 「海路」までが佐渡への道中で「配処」以下に滞島中の見聞が綴られ、「永享八年二月日、沙弥善芳」と結んでいます。沙弥善芳は世阿弥の道號です。配流が七二歳に当たる永享六年(一四三四)五月であり、翌々年の二月まで佐渡に在島、生存していたことはわかるものの、その後の消息はわかりません。悲嘆を表向きにせず、達観した流謫生活を送ったことが、文面からうかがえるのです。

 

佐渡状〕 金春禅竹宛書簡

 

 世阿弥佐渡から、娘婿であり芸嗣子でもある金春禅竹に宛てた自筆書状。奈良宝山寺蔵の「金春家旧伝文書」中より発見されました。

 6月8日の日付があり、佐渡配流の翌年永享七年頃のものと思われます。一般に「世阿弥佐渡状」と呼ばれ、「至翁」の自署があります。

 手紙の主な内容は、

都に残した老妻寿椿や佐渡の自分に対する扶持への礼、佐渡での暮らしは安心してほしいこと。禅竹より「鬼の能」についての質問に対する意見(これがこの手紙の中心内容とみられる)。

佐渡は驚くほどの田舎で紙不足で困ること…

 

などと書かれています。実際この書状の用紙は楮紙(こうぞ)の粗末な薄いものを2枚つないだものですが、最後の部分で「ありがたい妙法諸経でさえ、藁筆で書かれたものがあるのだ。この手紙も『金紙』に書かれたものと受けとめて読んでほしい」と結んでいるのです。

 こののち世阿弥は、嘉吉元年に将軍義教が暗殺されたため、許されて京都に戻り、娘婿禅竹に養われ老後を送った。あるいは佐渡でそのまま死去したものとも想像されています。

 相国寺、僧宣竹による観世小次郎画讃に「世阿弥年八十一」とあるのに従えば、世阿弥の没年は一応嘉吉三年(1443)となるようです。

 

佐渡状参照URL 【言の葉庵】世阿弥絶筆「佐渡状」を読む。

http://nobunsha.jp/genbun/post_96.html

 

 

 

《参考文献》

世阿弥配流』磯部欣三 恒文社 (1992)

佐渡世阿弥伝説』水野聡 池袋コミュニティ・カレッジ2010年 3月期テキスト(非公開)

 

横浜よみうりカルチャー6月新講座「茶の湯の始まり」他全3教室

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6月より、横浜にて新しい【言の葉庵】カルチャー講座が始まります。

いずれも初心者対象の日本文化入門コースです。

ご興味がありましたら、ぜひ、ご参加お待ちしています。

 

 

NEW!〈横浜市・よみうりカルチャー横浜校〉

1.一日講座:茶の湯のはじまり~茶道の歴史と意味~

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202104-18010201.htm

2021年6月29日(火) 10:30-12:00

・受講料 (会員) 3,300円(税込) 教材費165円 施設維持費385円

 

茶道の歴史をやさしく学ぶ、1dayレッスン。茶は奈良時代に日本にもたらされ、長い年月をかけて今日の茶道文化となっていきました。かつては貴族や武士など、特権階級が茶の湯に親しみ、室町から戦国期にかけて「天下人」の最大の楽しみとなったのです。豊富な茶道資料や画像を通して茶道史のトリビア!に触れてみましょう。初心者対象の入門編です。

 

 

2.定期講座:茶の湯文化史入門  ~千利休の侘び茶の世界~

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202107-01510201.htm

2021年7月6日(火)~ 毎月第一火曜日 10:30-12:00

・受講料 (会員) 3か月 3回: 9,900円(税込) 教材費495円 施設維持費1,155円

      (体験) 1回  3,850円(税込)

 

 茶の湯は中世以来の日本文化と精神を総合した、日本独自の生活哲学です。茶の歴史・意義・思想を、千利休や他の名茶匠の足跡をたどりながら、やさしく学んでいきます。茶書・史書から漫画まで幅広い資料を通覧し、解説します。

 ◆茶の心「侘び」とは何か?

 ◆茶書の代表作、「南方録」「山上宗二記」を読解

 ◆名物道具の由来と茶室の成り立ちを詳しく解説

 ◆人気漫画「へうげもの」の世界観を検証

 

 

3.一日講座:怖くて哀しいお能の女の話~丑の刻参り伝説

https://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/202107-18010202.htm

2021年7月24日(土) 17:00~18:30

・受講料 (会員) 3,300円(税込)、(一般)3,850円(税込)

       教材費165円 施設維持費385円

 

「草木も眠る丑三つ時……」。日本の怪談は、仏教説話や古い民間伝承から生まれました。とりわけ“丑の刻参り”とよばれる五寸釘を藁人形に打ち込む、恐ろしい呪いの儀式はフィクションである能のある曲から生まれてきたことをあまり人は知らないかもしれません。恐ろしくも哀しいある一人の女の物語。能「鉄輪(かなわ)」をビデオ映像とともに分かりやすく解説していきます。

 

(1.~3.共通)

・講師 水野聡(能文社)

・お問い合せ・お申し込み:よみうりカルチャー横浜:045-465-2010

・受付時間:平日、土曜、日曜日 10:00~20:00